疲れて参加できない日の、後ろめたさについて
「今日は見ているだけにします」
マットを出さないまま、そう書いて送ります。休むと言ったわけでもないのに、抜けたような感じが残ります。
全部やらないと、意味がないのでしょうか
同じ場にいることと、同じ動きをすることは別です。体を動かさなくても、その場の空気のなかにいた時間は残ります。
見ているだけの日に、かえってよく分かることが珍しくありません。自分が動いていると、自分のことで手一杯になるからです。
後ろめたさは、どこから来るのか
費用を払っている、時間を取ってもらっている、みんなは動いている。理由はいくらでも挙がります。
けれど元をたどると、休むことには理由が要る、という前提に行き着きます。この前提は、たいてい仕事や家のなかで身につきます。
理由が要る、という前提が続くと
いつも説明を用意するようになります。疲れたというだけでは足りない気がして、もっと大きな理由を探します。
抱えたまま年月が経つと、本当に動けなくなるまで休めなくなります。倒れて初めて休む方が多いのは、このためです。
見ている側から見えるもの
人が動いているところを外から見ると、その人が使っている力の量が分かります。自分が同じことをしているときには、まず見えません。
だから見学の日は、損ではありません。その日にしか手に入らないものがあります。
見学の日に届くもの
自分が動いていないとき、人の動きの丁寧さや、場を支えている力の大きさがよく見えます。
それを見て涙が出るのは、受け取る余裕があったからです。動く日には届かなかったものが、見学の日に届きます。
休む日を、欠けた日ではなく、別のものを受け取る日と考えると、続け方が変わります。
休む日があるのは、続いていない証拠ではありません
全部できた日だけを数えると、続いているようには見えなくなります。いた日を数えると、見え方が変わります。人のそばにいるだけで、自分の状態が変わる理由にも通じます。
仕事で参加できず見学したけれど、外から見ると使われている力の大きさが伝わって涙が出た。その夜のことを記してくださった一通です。
参加者の方から届いたお便りより