終わったはずの怖さが、まだ残っているとき
もう関わりのない相手のはずなのに、帰り道で後ろを振り返る。
電話が鳴ると、一瞬体が固くなる。
家に着くまで、どこかで気を張っている。
本人は「もう終わったこと」として扱っています。体のほうは、まだ終わっていません。
終わったことにしても、絡まりは残ります
出来事が過ぎることと、絡まりがほどけることは別です。状況が変わっても、そのとき体が覚えた反応は残ります。
残ったまま年月が経つと、その上に新しい絡まりが重なっていきます。あとから思い返して、あれはまだちゃんと終わっていなかったのだと気づく方は多くいらっしゃいます。
なぜ、当時は気づけないのでしょうか
渦中にいるあいだ、人は生き延びることに全部を使います。感じている余裕がないので、感じることを一時的に止めます。
止めたものは、状況が落ち着いてから出てきます。だから「今になって怖くなった」ということが起こる。遅れて出てくるのは、おかしなことではありません。
そして、当時の自分がどれほど無理をしていたかも、あとから見えてきます。そこで愕然とする方もいらっしゃいます。
助けてくれる人が、周りにいたこと
怖い出来事のさなかにいると、自分がひとりで立ち向かっているように感じます。
けれど振り返ると、話を聞いてくれた人、動いてくれた人が、思っていたより多くいたことに気づきます。怖さが強いあいだは、その人たちが見えにくくなっているだけです。
気づけるようになったこと自体が、怖さが少しずつ小さくなってきた印です。
誰かが一緒に動いてくれること
一人で抱えていたものが、周りの人が動いてくれたことで形を変える場合があります。職場の人、家族、身近な人。
怖い出来事のさなかで、周りが優しかった、という書き方をされる方がいます。二つは矛盾しません。同時に起きます。
そのままにしておくと、身構えだけが生活に残ります。相手がいなくなっても、警戒する形は続きます。
これは、引きずっているからでも、立ち直りが遅いが原因ではありません。ほどかれていないというだけのことです。周りの人の機嫌に、自分まで引きずられてしまうときに詳しく書きました。
つらい出来事のさなかに、ある方が書き送ってくださったお便りから抜き出して載せます。
参加者の方から届いたお便りより