気持ちが限界にきていることに、自分では気づけない
朝、いつも通りに起きて、いつも通りに家を出ます。
誰かに、大丈夫、と聞かれれば、考える前に、大丈夫です、と答えています。実際、毎日は回っています。
つらい状況も、何年も続けば、それがその人の基準になります。
前の自分がどうだったかは、もう思い出せません。今がどれくらいしんどいか、を、自分では測れなくなっています。
限界に近いことに気づいたのは、倒れたあとでした。あるいは、誰かに言われたときでした。
外から見れば分かることが、中にいると分かりません。
気がつくのは、数日後だったり、半年後だったり
一通は、この三行から始まります。
「受けると、何かが変わっていて、それに気がつくのは数日後だったり、半年後だったり、な…私を皆んなを救い続けてくださって、本当にあり得ません」
数日後、半年後、とあります。その日には、分かっていません。
「酷い状況から、(酷い状況にも気づかず)救い続けてくださっていることもあり得ない有難さで、私は本当にこれを求めて、通い続けてるのですが」
酷い状況にも気づかず、と、括弧のなかに書かれています。
気づけないことと、鈍さとは、つながっていません
便りの主は、自分の限界を測る方法を身につけたのではありません。通い続けている、とあります。
「いつも私の勘違いを解いてくださって、ありがとうございます。」
勘違い、と書かれています。自分では気づいていなかったほうの話です。
「他のメンバーさんが「奇跡の真っ只中」と形容されていたのが、本当にそうかもしれないと感じます。」
そのあとのことを、受けた方が書いてこられます。すぐには分からない、と。数日たって、あるいは半年たって、あのとき何かが変わっていたのだと気づく、と。
1対1の時間に、準備は要りません。どこがつらいのかを説明できなくても、何が問題なのか分かっていなくても、話は始まります。
見えるようになったのは、少し離れたあとでした。
ここで下りた分は、絡まりの分とは別に数えられます。
気がつくのは数日後だったり、半年後だったり。届いた便りは、下に続きます。
参加者の方から届いたお便りより